千年の待人

 秋の空気が、彼を無視する様に通り過ぎた。どれ程前の事になるのだろうか。過去に出来なかった事を、シーナは思い出でも浮かべる様に空想する。そうだあれは冬の事だった。あれからどれだけの数の冬を過ごしただろうかとも考えるけれども、現在住んでいる所は生憎あれ程寒くはならない。1回も冬が来ていないのだから、もしかしたら時間はまったく過ぎていなくて、実は本当に昨日の事なのかも知れない。もしもそうならもう1度やれば出来る様な気がしたけれども、長い先月をかけて少し高くなった自分の視線が、それを客観的に否定した。

 使い魔のゼノンは、彼が母と慕う女性の家に泊まりに行っていていない。その上一緒に暮らしている恋人まで、まるでシーナを孤立させるのが目的みたいにどっか行ってしまった。

 どうしよう1人ぽっちだ。

 玄関ドアへと続く階段に座り込み、何処に行こうか思案する。そうして外に出たはいいものの何処に行くのか決めていなかった事に気付くと、今から決めてまで何処かに行くのも馬鹿らしく思えて何処にも行かない事にした。彼の左手に見えるブランコが、風と戯れて揺れた。

 どうしよう、今度は暇だ。

 人を待つのは昔から苦手だった。掃除をして、料理を作って、それが終わったらとんでもなく暇になってしまう。普段ならば特に何をしなくても、それが暇である訳ではない。しかし人を待っている間は、手が空になると暇になってしまう。人を待つのが苦手と言うより、暇なのが苦手なのかも知れない。そこまでうつらうつら考えたシーナは、小さい欠伸をした。

 最初は待っているつもり等無かった。それはそれは、仮にあったとしても蟻が1回の呼吸で吸う酸素分子よりも少ないくらい。

 森の木々が巨大な影を作り上げて、小さな隙間から差し込む赤色が地面に滲み込む。自然が作る迷彩柄の上の空気、光が弱まると気温も下がるものだ。シーナは眠っていた意識の半分と体の大半を覚醒させて、彼に堅い階段の上で寝かされていた身体を労った。首や腕を回すと、非難の声が上がる。それらを宥めるのが彼の仕事だったけれども、シーナは目の前に突然出現した人物に驚いていたので、体中の痛みは無視されてしまった。
「何寝てんの?」
 シーナは思わず立ち上がって、階段を昇る手前で止まっている発言者を見た。短い黒髪の向こう、その人物が歩いて来た方向を確認して、そこに何のトリックも無い事を確認すると頭を横に振った。彼の長い銀髪が、波打ちながら空気中の夕日を喰らって朱くなる。
「クロス……。存外早かったな」
 クロスと呼ばれた男性は出かける際に何時帰る何ぞ言っていないのを思い出す。何を基準に早いと宣ったのか怪訝に思った。が、その様な事は綺麗に無視して相鎚を打つ。
「また深夜に帰ってくるのかと思ってたのに」
 ああなる程。彼は経験から物を言った様であると悟り、「最近はそんなに遅くないだろ」と忠告した。
「そうだっけ? そうだったかなぁ……」
 シーナははぐらかしているのか本当に疑問に思っているのか、曖昧な言葉を口から漏らす。首が微かに傾げられて、前髪のあちこちが夕日を再び喰らった。それから逃れられた朱色が、散り散りに光る。

 クロスは階段を上った。シーナが、少しずつ迫ってくるクロスを目で追う。見詰めていたクロスの頭がふいっと動かなくなる。シーナの1つ下の段。シーナが不審に思って目前の男の目を見た。視線はほぼ水平。黒色の瞳に、自分の銀髪とくすんだ蒼い目が吸われて輝いているのが判る。実物よりも美しそうなそれを、シーナは心の中だけで欲しがった。あれの様になりたいと強く願うと同時に、クロスの目に美しく輝いている事を喜ばしく思う。それを目の持ち主が、見れないとしても。
 シーナが腹の中でその様な思いを飼っていたのは、彼がクロスの黒い瞳を見入っていた数瞬の間だけだった。その思いが腹から生まれる事なく胃酸で溶けてしまうと、シーナはすぐにどうしてクロスが階段を上るのを止めてしまったのか判った。自分とあまりくっつきたくないだけだ。階段は狭いから、きっと、1つ下ではなく2つくらい余裕を持てばよかったとでも後悔しているところだろう。
 シーナは1段上って、2段上って、玄関のドアを開けた。夕日に侵されてあやふやになった視線を背中に侍らせながら、中に入る。そして外のクロスを見下ろし、
「お帰り」
「…………。ただいま」
 彼を追う視線が水平に近付いて、通り過ぎた。夕日の欠片が風に乗って、懐いたみたいに黒髪と遊んでいた。

 シーナの頭の中で、コトリと音がする。意識の中、蓋の開いた宝石箱からオルゴールの音が聞こえるみたい。中身がめちゃくちゃな重力に誘われてふわふわと脳内を舞い上がった…………空気中に紛れてゆく。


 その日はとても冷えた。雪が空気中に散りばめられて、そこだけ無重力みたいにざわめいていた。風が無いから。
 シーナは、冷たい手に息を吹きかける。人工の風、風が無いのはとても不安だ。地上の何処にでもある空気にさえ取り残された気分になる。実際には彼の肺にはきちんと酸素分子が送られてきて、彼はきちんと空気の存在を感知している。それでも…………能動的に彼の肺に入ってきた酸素分子が一体幾つあろうか。きっと無い。

 シーナはマンションのドアの前で、夜に沈む街を眺めていた。深夜に光は少なく、星々の明るさを吸収した雪が、視界いっぱいに広がって存在を主張する。好き勝手に揺らめく星の子ども達。じぃっと見ていると、呪いにでも罹った様に目眩がする。
 シーナはずっと同居人の帰りを待っていた。最初は彼の仕事場へ迎えに行って、ついでに仕事を手伝って、そして一緒に帰ってこようと計画していたのだが、玄関を出たところで「そこまでしてやる義理は無いよ」と雪が降り始めたのだ。この雪の中迎えに行けば「雪が降っているのに来たのか」等と、満足そうに意地悪く笑って言われるのに決まっている。雪の中仕事を手伝いに行く程、尽くすヤツだとは思われたくなかった。しかしここで家に入るのも、雪に負けて迎えに行くという意志を曲げた様で気に食わない。まだ少年と青年の間を彷徨うシーナは体の若さに相応する未熟な意地を持っていて、その意地の声を聞き入れていた。

 しかし寒い。

 口腔、咽、気管支に触れる空気の全てが氷の様で、チクチクした痛みを人々にばらまいてゆく。シーナも空気に取り残されていない代わりにそれを押しつけられた。彼はそれを受け入れながら、手に息を吹きかけた。自分の白い息が周囲の空気に馴染んで一緒になるのを見届けて、1人の寂しさを紛らわせる。自分の1部だった物が仲間を見付けるのは、少し嬉しい。

 寂しさ?
 シーナは自分の思考に疑問を持ったけれど、その答えが見付かる前に疑問は忘れられる。
 待人が来たから。

「クロス。お帰りなさい」
 マンションのドアの前の廊下。その突き当たりに現れた同居人が、雪の様に星の光を湛えているシーナを見付けて立ち止まっていた。距離、近いとは言えなかったけれど、夜の空気はよく震えて、シーナの声を響かせる。
 クロスが早足でやってくる。そしてシーナの髪が、まるで細い氷柱の様になっているのを触って確認した。
「……」
 何も言わないでドアを開ける。その音が、シーナにもよく聞こえた。その音をシーナは、全身の細胞で感じ取る。
「何をしている。入れ」
 中に既に入っていたクロスが、ドアから漏れる部屋の明かりに照らされているシーナを見た。

 うん。寂しい。
 よく判らないけれどそう思った。お帰りなさい何て言った事無かった彼は、ずっと小さい頃から、自分の家に誰かが帰って来た時その呪文を唱えれば「ただいま」と返ってくるのだと信じていた。それが迷信だった事に気付いたのと同時に、ここは自分の家ではないと知る。
 カミサマみたいに大切な人に、自分の居場所を没収されたみたいで寂しかった。
 空気の酸素分子が自分を望んでいない、息が出来ない。


 くすんだ蒼が過去を見ていると気付いたクロスは、上着を脱いでシーナの頭に被せる。
 枯葉と彼の匂い。
 上着を暖簾に見立てた様に顔を外に出す。クロスと目が合い、西日が眩しいのか目を細めるシーナは、宝石箱を片付ける。昔出来なかった記憶を仕舞う為のそれは光を鈍く揺らめかせて思考の暗がりに慎重に沈められ、眠らされた。中身が周囲の空気に混じって捕まえられない、もう元通りに片付けられない。宝石箱から逃れた記憶が朱く、ちらちらと、


 キリリク「シーナの物語」
 ラストまで読みたい方は架さんの所へGo!!というズルイ作戦に出てみます。

 どうにでも消化出来るお題というのは今までにもありましたが、これはまた違う意味でどうにでも消化出来るように思われました。シーナが関わってさえいればいいのですから。しかし、「シーナの」となっているからには、それに相応しい内容でなくてはなりません。そう考えると難しいモノで、自分のキャラなのに彼が解らなくなってしまいました。

 彼を見つめ直すチャンスを下さった架さんに感謝を込めて。
 400hitありがとうございます。

 そしてこんなのもプレゼントです。


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06.08.26