遠くでファンファーレが聞こえた。
自分が不可視の膜で何層にもくるまれ隔離されたように、遠くに聞こえた。でも、現実にはすぐ隣の聖堂で鳴り響いているのを、ドールは知っていた。今日──正確には、今日の正午で11年の学徒区分が終わる。
卒業だ。
右足を軸に、ぐるりと回ってみる。くぐもった光をくれたはめ殺しの窓。細身のベッドに、本を4冊広げたらいっぱいになるデスク。ちゃんと最後まで壊れずにいてくれたチェア。固い蛇口に陶器の洗面ボウル。流れるように一瞬で見渡せた、刑務所か収容所から奪ってきたかのように古めかしくみすぼらしい、これがこの部屋の全て。
ここで11年を生きた。
「ここで11年、生きた」
確かめる。自分に自分の声を聞かせてやる。(まるで嘘のようだ。それでも、)ゆっくりと時間をかけて、じんわりと意味が染みてくる。水底から現実に引き上げられて
来いよ。
あの声が鼓膜に蘇って、ドールは自らの右手を見た。それでは足りなくて、窓辺によって、朝の光に掲げて見る。
卒業式典が行われている建物が、すぐ近くに見えた。
とうとう出席は許されなかった。医師養成科に自分の空席があればいいなと、あるはずがないかと、どこか他人のようにぼんやりと思った。
しかし……そんなことよりも、この方角は、城門のある方角ではないか。
来いよ、と言われて、結局その場でついて行くことはできなかった。怯えていた。
そんな自分を王さまは、黙って抱き寄せてくれた。
国外[そこ]で自分は生きていけるのだろうか。
そのときは、そんなことを言えば王さまはきっと「この国にいても餓死するだけだ」と叱るだろうと思って、接触した部分に感じる体温を失いたくなくて、黙っていた。
(そうだ、自分には、あの体温が必要だ)
不器用にまばたきを1つ……、
そのとき聖堂の鐘が揺れ、重々しい響きを轟かした。彼の人生の中で、かつてないほど照々と聞こえていた。まさに、宣明。
ドールはしばらく愕然としていた。そしてその衝撃が去ったとき、鐘の音の余韻の中で、王さまが国の外に去ってからずっと迷い考えていたことが、今、ようやく答えに辿り着いたという確信だけが手の中に残っていた。
右手を握る。
王さまの手は、ドールの手よりずっと大きく、皮膚が硬くて、マメがあった。かたわらにいつも置いていた大剣が形づくった、怖い、それなのに……、どうして、それでもあの手は温かく、優しく撫でてくれる。
もう1度確認して、心に定着させるように、王さまと触れ合った部分、その感覚を体の中核へと吸い上げる。
そして、
深く、深く息を吐いた。
それを待っていたかのように、ドアがノックされ、返事をする前に開けられる。
「……なんで?」
そこには、彼の王が君臨して、
「寮にいないから、探した」
ドールの驚きも知らない風に、まさしく王のように、何の動作もなく言ってみせる。
「みんなと一緒には住めないから、ここに……。そもそも、いつもみたいに呼び出したらいいのに」
王さまなのだから。そう付け足すと、彼は「そうだな」と微笑んだ。
「今日の正午の鐘が見物……いや、聞物か? だと言っていただろう。近くで聞いた方がいい」
「うん、言った……」
本当は、特別だと。
「あのとき、どうかしてた。甘えてた。……ごめんなさい」
ドールが呻くようにそう言うと王さまは軽く吹き出して、この小さな子どもをやんわりと抱きしめた。弱くあること、それを謝罪し赦しを請うことさえ、王さまの前では滑稽なこと。彼は王さまなのだから。なにもかも、この国の人民とは違う。
「オブリガード」
肩口に額を押しつけてみる。
「ん?」
「来てくれて」
「最初からそう言え」
ベッドにどさりと座って、その瞬間この部屋の主になる。11年のこの部屋に、最後の今日になってとうとうやってきた初めての来客だなんて事実は一切無かったかのように。ドールの知る限り、王さまはいつもこうだった。
「髪、染めるの止めたんだな。そっちの方が似合う」
その言葉を受けて、ドールは自分の短髪を引っ張って視界に入れた。滑らかにするりと指の間を落ちてしまった髪は、確かに銀髪だった。何度目の確認だろう。そんなことをぼんやり思った。がばりと顔を上げて、王さまと視線を合わせてから、確認と同じだけ練習してきた笑みを浮かべる。
「だって、銀髪しか生えないって……分かったから」
王さまは何も言わずに頷いた。
ドールも何も言わずに頷いて、隣に座る。髪に撫でられた感覚がした。
そして2人、じっと、そっと、正午の鐘を待ち始めた。