海。
その存在を、今まで当たり前に感じた事が月野にあっただろうか。海の存在を夢にも見ない母語に包まれて、部屋の中で手厚い保護を受けて育った彼女。海を知る由も無ければ、その大きさを全く想像できなかった。
海に行く。
一体、誰がこんな未来を予見していただろう。
月野が娘のように可愛がり、そして育てているラテが、指差した先にあるものは絵の中の海だった。生理的微笑みも見せてくれない彼女が興味を示したのだ。本当に感情があるのかさえ不明だった彼女が。
だから、彼女の兄であるシーナが
「海に連れて行ってあげようか」
と、大冒険のお誘いを持ちかけても、まぁ、おかしくない話だ。
シーナは大冒険の案内役なのに、前日になっても荷物をまとめようとか、旅の準備には無関心だった。そのことにちょっと月野は不満を持って、
「コラッ」
足先で軽く蹴っとばした。
ちょっとした冒険。
海に続く森には、月野の故郷にも住処にも咲いていない花があって、土の匂い、木の匂いも違う気がした。
小さいピンク色の花が、沢山集まってまんまるになっている。
「海の匂いがするだろ?」
と言われても、海に出るまではどれが海の匂いかさっぱり分からなかった。
初めての、海。 これ以上に細かくてサラサラとした気持ちいい砂を、踏みしめたことがあるだろうか。
これ以上に広くて大きい空間に、自分の存在を置いた事があっただろうか。
キラキラして、昂奮して、自分の中に収まりきらない世界を感じる。
「初めまして、海の匂い」
頭がクラクラするような、そんな匂い。
今はまさに、自分が人生の主人公であると実感する時。
海辺に住む夫婦が、一行を出迎えてくれた。
彼女達は海を探して旅に出て、沢山の時間と沢山の苦労が報われて、そして今はいつか来る同士を楽しみに待っている。小さなホテルになっている彼女たちの家からも、そのことは読み取れた。
でも、同士は未だ来ないらしい。まだ両手で足りるくらいしか来たことがないけれど、シーナが1番の常連客なのだ。
「身の危険を感じたって逃げてくるんだから、困ってる」
と言った奥さんの苦笑はとても爽やかで、魅力的だった。
「いっぱい遊んできてね」
波飛沫の冷たさ。
空気の熱さで火傷した肌を、ちくりと刺激して逃げてゆく。ラテをちょっとずつ海に入れてみると、びっくりしたのか、大きな目をもっと見開いて硬直した。そして緊張から解放されると、月野に縋りつく。
まだ小さくて、言葉もあまり話せない彼女には、この海はどういう風に見えて、……月野はどういう人物に映っているのだろうか。
「好き」
なんて言ってもらった事はない。だから不安、という訳ではないけれど、少し、そう思うことが正直時々ある。
世界の端っこで、2人きりになってしまったみたいな気分だった。
水平線というものを初めて見たし、初めて知った。あの先には何があるというのだろう。広大な面積が、線に見えてしまうくらいずっと遠く。もしかしたら、異世界だとか。
月野はラテに空想を語って聞かせた。ラテはじぃっとそれを聞いた。膝に座らせたラテの足が、波の表面にぱちゃぱちゃ叩かれている。ラテはその波に仕返しをすべく、ぱちゃぱちゃと手のひらで叩く。この水は、どこから来てどこに行ってしまうのだろう。
見えないくらい遠く?
それともすぐ近くにいるの?
海の水は、雨になるまでどこを彷徨うの?
……ラテの気持ちは、今どこを?
「ラテちゃん、楽しい?」
名前を呼ばれて月野を見上げるラテ。無表情だけど、感情の欠片も見受けられないけれど、きょとんとしているのが何となく感じられた。波をやっつけようとするのを止めて、手を月野の太ももに置く。冷たい水の中で感じる、初めての感覚。ぼやかされたみたいに儚く、輪郭が滲んで溶け出して、混ざり合うような優しさ。
ぎゅっと、抱き締めた。
初めての海。
こんな柔らかさを感じたことが、今までにあっただろうか。