あの頃私は天使だった

「何処かへ逃げませんか?」
 と、少女は言った。私は寝っ転がっていた。太陽が眩しい。そう私が思っているのを予知していたみたいに、彼女は影になるように私を覗き込んでいた。
 夏の厳しい光に慣れていた目は、逆光の彼女を視認することが出来なかった。黒髪が日光に照らされて、明るく輝いていた。痛んでいるのだろうか、少し茶髪っぽい。
「ここは煩い」
 私は呟く。声にして気づいたが、これがもっぱらの不満だった。
 本当に煩いのだ。みんな私をジロジロ見る。そして私について何か勝手に言葉を吐き捨てる。それが狂ってしまいそうな程不愉快だ。『イライラしたからやった。反省はしていない』その気持ちがよく分かる。これからは、私のことを住所不定無職21歳女性と呼んで欲しい。
「静かなところなら知ってる」
 少女はそう言った。柔らかそうな声だった。手を差し出してきた。寝っ転がっている私を起こそうとしているのだろう。しかし彼女の腕は細い。しかも女の子らしく付いている肉には脂肪も混ざっているものだから、私は少し躊躇した。しかし私はすぐに「手を取りつつ、ほとんど自分の力で起きあがればいいではないか」と閃いたので、それを実行しようとした。
「あれ?」
 腕が上がらない。体が重い。何やらギシギシする。いや、もはや感覚が無いみたい。自分の力で起きあがる所か、手も取れないではないか。硬い地面に寝ていたからだろうか。嫌だ嫌だ。21歳にして花の女子大生がもう歳だ。先程無職と言ったのは忘れて欲しい。
 この失態を見た少女は、ふっと笑った。顔は見えなかったが、声で分かった。そして
「寝過ぎ」
 と切り捨てた。少し酷い。
 しかし少女は私の横、腰の辺りにしゃがむと、右手を優しく取り上げてくれた。必要最低限の組織に皮が貼り付いたような手の甲を、彼女が見ているのが肌で分かった。静止の時間は恐らく3秒くらいだった。少女は不意に立ち上がった。私の手を持ったままだった。彼女は姿勢良く立っている。不思議な感覚だ。下を見る。私は上半身を起こして座っていた。少女を見る。顔はやはり見えなかった。しかし、笑んでいたと思う。
 ああ、これなら起きあがれそうだ。
 左手で地面を押すように立ち上がった。まるで体を脱ぎ捨てて、魂だけになったみたいに簡単だった。少女と私は、大体同じ身長だった。表情がよく分からない。

「救急車だ」
 また呟いていた。私はどうやら、思ったことをすぐに口に出してしまうらしい。困った。ああ、でも、あまり誰かと真剣に話したりしないから、どうでもいいかも。救急車のサイレンは近付いてくる。ますます煩くなりそうだ。
「さて、行きましょうか」
 少女は言う。手は繋いだままだ。
「何処か静かな所?」
 繋いだままだが、私は行き先を知らないので丁度いい。
「静かな所」
 彼女が言う。
「静かなところ……」
 私も言う。何処だろうか。

 彼女は私の手を引いて歩き出した。人混みを切り抜ける。私に何か勝手に口々言っていた、あの集団だった。手を繋いでいると言っても、恋人同士のように固く握っている訳ではない。時々離れそうになる度に、私と彼女は力を込めあった。救急車がすぐ近くに止まり集団が一層ざわめきを増す。その騒音から逃れるためには、私には少女が必要だった。きっと少女にも、私が必要だった筈だ。離れそうになる時の彼女の指の動きで分かる。

 私たちに適切な握り方を求めて、時折指をモゾモゾさせる。恋人でもない、親子でもない、私たちはどの位求め合ったらいいのだろう。付かず離れずがいい。必要な時にいてくれればいい。ただ、いつも必要なだけだ。ああ、初対面の女の子に何を感じているのだろう。よく分からない。

 パトカーのサイレンまで聞こえてきた。私たちの歩調は自然と速くなる。

 しかし不思議な魅力のある子だ。いや、魅力というのは変だ。惹かれている訳ではない。強いて言えば、彼女といると安心する。そうだ。危害を加えられることが無いと確信できる。そう言った方が近い。彼女は、私を嫌うことが無いだろう。いや、嫌いになっても、どこか根本的な部分で私を愛してくれている筈だ。そう思える。そんな相手、自分自身だけだと思っていた。いや、今では自分相手にすらそうは思えない。変だ。いつからそうなったんだろう。私だけは私に危害を加えないだろうと思っていた。昔の私が持っていた、あの絶対的な信頼感は何処へ、どうして行ってしまったのだろう。

 私たちは真っ直ぐと、何処かへ向かって歩いていた。大分静かになった。誰も私を見ない。存在を感知すらしていないみたいだった。少し寂しいことである気もするが、気にならない位いい気分だ。
 私はこの時点で彼女との逃避行に満足していた。何処に辿り着かなくても、こうして静かにひっそりと、誰にも糾弾されずに毛嫌いされずに生きていけたら、もう、いい。誰にも嫌われたくないなんて、無茶を言う歳ではない。私について何も言わないで欲しい。何も。大学受験では無難な線を選び、夢は無く、それでも将来就く職種はある程度決めていて、しかし就活の下調べをする訳でもなく、何かそれ以外のことに力を注ぐ訳でもない。普通、普通、普通! なのに、どうして誰かが私を見つけ出して取り上げて何か言う。
 少女がこちらを見た。私は、彼女をはっきりと見られなかった。
 どちらからか、私たちは立ち止まった。
 私は泣いていた。
 彼女はこれを見つけたのだ。
 ああ、彼女も泣いている。彼女の顔はよく見えない。でも、泣いているのが分かった。
 静かだった。
「私……」
 少女は切り出した。私たちは向かい合っていた。少女はうつむく。彼女の左手と私の右手を繋いで、私の左手と彼女の右手も繋がって、輪を作っている。その輪の中に、何かが起こりそうな気がした。宇宙人でも降りてくるかな?
「後悔してる」
 ぼそりと少女は言った。
「何を?」
 私は泣きやんでいた。驚く程、静かな声で問うた。訊かない方がいいかも知れない。そんなこと欠片も思わなかった。むしろ、訊いて促して、全て吐露させてやるのが少女にとって最良だと確信していた。泣いた後の不快な水の感触は、不思議と無かった。
「私のことに口出ししないでって、言えばよかった。従うつもりは無くても、聞けば、もう自由にできなかった」
 涙がぼたぼたと床に落ちていく。ああ、これが大粒の涙なんだな、と思った。自分のことがまるで他人のように感じられる時みたいに、私は彼女の告白を他人事のように聞いていた。聞いているという気がしなかった。
 ふと、横に視線を移した。ナースステーションが見えた。
「病院……」
 彼女に視線を戻す。まだ泣いていた。頭を撫でてあげたかった。しかし、手を離したくはなかった。仕方ないので手を握る。彼女も握ってくる。ああ、これが私たちの距離感だ。そう思って、とても満たされた。
「悪口だって、無視すればよかった。どうせ、私のこと大して知りもせずに言っているんだから。でも、気になって無視できなかった」
 気になると、嫌でもそれしか聞こえなくなるものだ。無視しよう、気にしないでおこうと思っても、それが気にしているということに他ならないのだ。私も、そのジレンマは覚えている。
「誰も信じられなくなる位なら、学校なんか行かなかったらよかった」
 少女は嗚咽を上げた。その姿が哀れだった。
 少女が黙ってしまったのを見て、私は何か、彼女に伝えるべきだと思った。いや、伝えたいと心の底から思った。
「私ね、悪口ばかり言われて、人の本心ばかり気にするようになった。……分かる訳がないし、分かっても救われるとは限らないけど」
 彼女の言う通り、私はもう誰も、誰の言葉も信じられない。
 最大限の努力で選び抜いた言葉だ。吐露になってしまったが、少しは彼女の慰めになればと思う。言葉で彼女を慰めるのは難しい。告白されてしまったのだ。「口出しされたくない」と。いや、もしかしたら、告白される前から感づいていた。彼女は私の同士。ただ1人本心が分かる。手を握る。彼女の力は弱くてか細い。
「大学のため、将来のためだって言われて、その通りだと思ってた」
 ああ、そうなのだ。いつの間にか、他人の気持ちが自分の意見になっていて、気づいた頃には遅いのだ。決定的に、自分の気持ちと、刷り込まれた意見が違うことに気づいても、気づいた頃にはもう遅いのだ。
「何も、言われたくない」
 これは、どちらの言葉だっただろうか。
 彼女が顔を上げた。私は初めて、少女の顔をちゃんと視認出来た。泣いていた。彼女は後悔しているのだ。きっと、私の代わりに。
「ごめんなさい」
 謝られた。本心の在処など気にならなかった。気にする必要すら無かった。この気持ちは本当だった。
「ごめんね。私、耐えられなかった」
 私が言うと、少女は首を左右に振る。健気な心だ。他人を信じられなくなっても、自分の心には、最後まで真っ直ぐだった。

 ふと、横を見る。陰鬱な壁が見えた。嫌な扉も、遠くに見える。
 少女を見る。少女も、私を見つめていた。
「さっきの言葉だけど」
 私は切り出した。恐ろしい程何もかも整頓されたように落ち着いた心だった。
「私、自分を信じることに、耐えられなくなってた。自分なら切り抜けられるって、信じることが出来なかった。それを、謝りたかったの」
 そう、その結果ではなく。
 私はそこで1度切った。少女を見る。少女は悲しそうに微笑んでいた。
「あなたを信じることが出来なかった。折角……私、耐え抜いたのに」
 少女はまた、首を振った。
 それを見ると、先程の落ち着きが嘘のように心乱されて、涙が滲んでくる。でも、どうにか堪えた。私には、泣く資格が無い。涙を我慢している時の、咽の辺りの痺れが私を責める。
「それくらい分かってた。私だから、そっちの方が気になるって……分かってた」
 ようやく視認できた少女の私は、悲しそうな顔をしてた。私はその表情を見て初めて自分のしたことを悔やんだ。ああ、ずっと彼女はこういう顔だったに違いない。そう思うと悲しかった。そして、それを許してくれた彼女が、彼女が私になるまでに私が捨ててしまった全てを持っているような気がして、私は、少し誇らしかった。私は、ああいうものを持っていたのだ。
「じゃあね」
 そう言って、私は左手を離した。離れた瞬間、左手がぐしゃりと潰れて血塗れになった。変な所で曲がって、何か中のものがはみ出している。よく今まで持っていた。すごいな私。
「おかげで、色々整理できた。初めて、本当のことを話せた気がする」
「私も、謝りたかったから」
 右手に1度、強く力を込めた。その手を見ていた視線を、ふっと正面に移す。彼女は、握られている手を見ていた。
 手を離す。どちらも、何も言わなかった。べちょり。と、右手から滴り落ちた、何か嫌なものの音がした。
 彼女の横を通り過ぎて、扉へ向かう。少しずつ私は崩れていった。飛び降りたのだから、魂だって壊れてしまったのだ。仕方ない。扉の前に向かって立った時、「じゃあねッ!」という声が聞こえた。そんな焦って言わなくても、無視して消えたりしないのに。我ながら子どもっぽいな。陥没してしまった顔は向けず、手だけで挨拶を送る。無理したせいで肩が変になった。でも、扉を開ける必要は無かったから大丈夫だった。本当に幽霊だ。不意に笑みが溢れた。ああ、今日の私は何だかおかしい。今なら死んでもいい。

天国では、耳が聞こえるようになっていてほしいな。

ベートーベン

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08.09.16 09.05.06修正