彼女が幼稚園に通える事になるまで、
「腹が減ったな」
「泥棒はダメだよ」
アキラは料理ができなかったし、料理を用意してくれる人もいなかったから犯罪を繰り返していた。彼にとってはそれが本当に当然で常識で、アキラは社会に楯突くためだけに生まれてきたんだと未南は思ったし、アキラは決してそうではないと思っていたけれど、結果としてはそうだと意味も無く開き直っていた。
河原でキャッチボールをする。川と土手の間で、町から何となく隔離されいて自然と雑草がいっぱいで、とてもキャッチボールにしっくりくる場所だ。アキラと未南は、そんな場所を2人が知っていて、しかもそこで2人がキャッチボールをできる事に満足していた。
「キャッチボールができない子どもなんて、子どもじゃねぇ」
と帰り道にアキラは言って、盗んだんじゃなくてゴミ捨て場から拾ってきたボールを、ポーンと上に放り投げた。アキラのリクエストで、聞いて覚えた英語の歌を歌っていた未南は歌うのを止めた。
「体が病気だからできない子が可哀想だよ」
2人はそんな言葉知らないけれど、綺麗に鋭利な2次方程式のカーブでボールは落ちてきた。ちゃんとアキラはそれをキャッチした。キャッチしなければキャッチボールにはならないから、アキラはいつもビシっとキャッチした。でも、今回のは1人で投げて自分でキャッチしただけだから、キャッチボールではない。キャッチボールとは、未南かアキラが投げて、アキラか未南がキャッチする、その繰り返しを指すのだ。だから、世界でキャッチボールができるのは、アキラと未南にとってアキラと未南の2人だけだった。
「そういうんじゃねぇよ」
アキラは呟いた。体が病気で遊べない子ども達に罪悪感を感じたのではないけれど、困惑したような、そんな躊躇いがちな言葉だった。何でそんな風にアキラがなってしまったのか、未南もアキラと同じくらい困ってしまった。
「そういうんじゃねぇんだ」
未南は一所懸命にアキラの顔を見詰めたけれど、そこに説明書きなんて無かった。当たり前だけど。
結局何が「そういうんじゃねぇ」のか、アキラの軽い頭と薄い語彙では説明できないに違いない。そう未南は大変失礼な事だけど断定したから、そしてそれが正しかったから、彼女は他のアキラを知っている大人に訊く事にした。
ターゲットは、時々一緒に過ごす健之だ。アキラはイイヤツだが、健之は良い人だ。頭がよくて、外国語の音楽を聴いている事が多い。無口で、小さくて教育の必要な未南のために何か諭す事もあるけれど、それも諺をぽつりと言うだけとか、しかもその意味は教えてくれないとか。
でも、そんな時に限って健之は中々現れなかった。
別に、今まで都合の悪い時に現れて困った事があるとか、そういう事じゃないけど。
もやもやして、もぞもぞする。次の日、お昼になったのにアキラはやってこなかった。雨だったから、キャッチボールができないからだったのかも知れないけれど、ゆるやかに降ったり止んだりを繰り返す空気の波長と音の雰囲気は不吉そうな匂いがした。閉め切っているのに、古い建物のスキをついて忍び込んでくる。
アキラだけじゃない。健之も、この家にいなかった。未南は世界が一切の鮮やかさを持たない灰色である事を発見した時みたいに、ざわざわするものを感じて、大声を出してそれを吐き出したい衝動に駆られるのを感じた。
駆られたけど、実行はしなかった。近所の迷惑になって、追い出されたらお仕舞いだ。
だから、その代わり走った。きっと彼女は、実際はそうではないけれど車よりゆうに速かった。
キャッチボール専用の、未南とアキラ貸し切りの世界は、アキラがいないから不機嫌だ。なんたって、キャッチボールはアキラがいないとできない。世界にとっては、自分の役目が果たせない上に小さな子どもを置いておかなくてはならないのだ。当然だった。そう思って、今度はさっきみたいな衝動ではなくてしんみりと悲しくなった。
1人で、そんな場所でする事なんて、何があっただろう。
駆け回ったって、何があるだろう。
未南は、子どもにしては賢かったから、そこに1人いたって風邪を引くくらいしかできない事を悟った。しかし、そこで大人しく帰れる程賢くなかった。子どもだから。
仕方ないから、聞いて覚えただけの、意味も分からない英語の歌を歌ってみた。例の昼にアキラがリクエストしたヤツだ。音からは判断できない、酷く寂しい歌だと世界の誰も知らなかった。それにもかかわらず彼女の声はか細くて不安定で、それを全て理解しているみたいだ。
アキラがいないのに自分1人で来てしまったせいで、この世界は変わってしまったのだ。アキラと2人で作り上げたのに、アキラの知らないところで滅茶苦茶にしてしまった。
雨は激しくない。しかし未南の小さな歌声を吸収して潰してしまうくらいの威力は存分にあった。
「未南」
その曲が最後の盛り上がりに差し掛かる頃、そんな声がした。
意味は無い気がしたけど、傘を受け取った。差すだけの力も無い気がしたから、今度はそれに従った。健之はそんな未南を、念のために持ってきただけの筈だったタオルで拭いていた。アキラと未南以外の人がいて、もうここはキャッチボールの王国じゃなかった。温暖前線が次々落とす雨に侵略されて、そんなところで、魅力はきっと何にも無い。今の自分におあつらえ向きで、少し泣いた。
無口な健之はいつものように何も言わない。
いや、いつもだったら何か言ったかも知れない。健之は、大切な事はちゃんと言う貴重な大人だったから。でも今は、そこいら辺にいる普通の人のよう。
帰り道に歌っているのは雨と道路、そして足で、とっても下手くそだった。それだけが音だった。
沈黙を味わえる珍しい子どもも、この沈黙は大っ嫌いだと思った。だからいっそ何も無かったみたいな気持ちで、せっかく健之が現れたんだからする事をすべきだ。
意を決して質問をすると、健之は考えるみたいに目を閉じた。立ち止まって、足音が消えた。遠くから車の音がして、鬱陶しそうに水を押しのけているのが手に取るように分かった。健之はぼーとしていて、寝ているようにすら見えたけど、健之は幼児のたどたどしい話にも耳を貸してくれる大人だったからそれはない。それはあのような沈黙の後でも変わりない事実だ。
じぃっと待っていると、健之は起きた。いや、寝ていた訳ではないけど、そう言いたくなる仕草だった。
「アキラは、子どもは元気で、遊びたいという気持ちが無いといけないと、言いたかったらしい。病気の子どもを否定するつもりは無い、と」
凄い。健之が1度にこんな沢山話すなんて!
着目すべき点はそこではないけれど、健之を知っている人なら皆そう感動したに違いない。未南も驚いて、その余り大っ嫌いな沈黙も、雨の音も、キャッチボールの世界が変質してしまった事さえも、1瞬どうでもよくなった心地だった。
「……すまないと、謝っていたよ」
健之は一言話す度に考えないと心配で仕方ない性分という事で、彼は一言一言じっくり口にした。それを知っていて認めている未南は、じっくり話を聞いた。今まで健之がこんなに話したのを聞いた事がなかったから、人の話を聞くのにじっくりなんて態度が必要だったのは初めてで、不慣れだったけど上手に聞けた。つまり、アキラは誤解されてそれを解きたかったけど、どう言っていいのか分からなくて困っていたという事だ。
「アキラが悪いヤツじゃないって分かったから、謝らなくていいよって伝えて」
健之は、アキラがするのよりもっと丁寧に、でも優しさは同じくらい沢山感じられる手つきで未南の頭を撫でた。男の人の手、と聞いて想像するよりもっと柔らかい。
健之は手を離した。しかし未南の表情を見取って、歩き出したりはしなかった。足音が消えて、意外と雨と道路の歌もイイな、と少し思った。少しだけ。未南は、そう思っている自分に気付くと、楽になった気がした。
次の日、まだ雨は降っていたけれどアキラは出現した。
「あー雨か、これじゃキャッチボールはできねぇな」
と彼は軽薄な悪態をついて、あんまり残念がっていないように見えるケラケラ笑いをした。でも、とっても残念に思っているのだ。未南は知っていた。
そんな彼を見ていると言い出しにくかったけど、昨日1人であの場所に行ってしまった事、そこがとても寂しくて、冷たい世界だった事を頑張って告白した。BGMは、アキラがリクエストした歌だ。偶然にしてはできすぎていたけれど、単に話が長くなってしまって、1周したCDアルバムの中にその曲があっただけだった。
アキラはその告白を黙って聞いて、時々頷いて促して、未南が泣いたりしないように手は出さないで、いつもの軽い態度からは想像できないけれど真面目に聞いた。冷静に思えば健之から聞いていただろうに、それがまるで産まれて初めて聞いた世界の真理であるかのように、アキラは片言隻語まで逃さず聞いてくれた。最後までちゃんと話せたら、えぐえぐとかって効果音が出てる未南を優しく抱き寄せて、抱き締めた。それが今、未南の話から学び取った真理であると言わんばかりに。
「歌、歌ってくれたら許したげる」
その時のリクエストが、寂しい曲ではなくてアバのアイ・ハブ・ア・ドリームだったのは、健之がアキラに「小さい子にあんな歌は似合わない」と言う趣旨のお説教をしたかららしい。それを知ったのは、そう、アキラがいなくなってからずっと経ってからだった。