いつか私を呼んだ声

「あ、ママの声」
 石畳の道を歩いていた女性が、振り返る。漏らしてしまった声は民衆の中に消された。スカートと長い銀髪がふわりと膨らんで、元に戻る。銀髪の冷たい輝きによく似た、冴え冴えとした印象の美しい女性だ。その彼女が、振り返った態勢のまま、立ち止まって動かない。
「……」
 隣にいた男性が困惑した表情で女性を見ている。人々が彼らを遠巻きに追い抜き、また、追い越していく。外国の正装を摸した女性の服装は、彼女を守る結界のように人を寄せ付けない。その変わった服装を珍しそうに見る人、あからさまに目をそらす人が、そのどちらでもない人々に紛れて彼女を監視している。しかし彼女は全く意に介さない。振りさいたままだ。

 彼女はママを探しているのだろうか。
 後ろ姿を見ると、確かにそういう仕草に見える。
 髪先と黒いエプロンドレスの裾が、柔い風に揺らされている。
(またか)
 心の中で、男性は溜息を吐く。
 男性は何か言いたげに、しかし言えない戸惑いで、
「ラテ」
 と彼女を呼んだ。
 何度経験しても慣れない。
 その男性の感情を、彼女は理解できただろうか。ぐずる子どものような、哀願をせがむような声で
「だって兄さん、ママの声が……」
 と呟いた。
「ラテ、こっちを見てごらん」
 男性はラテと呼んだ妹の肩に手を置き、振り向かせようと力を入れる。ラテは最後に1度だけ視界全体を見渡した後、素直にそれに従った。その表情は落ち込んでいるという訳でもなく、ぼんやりとしたような雰囲気だ。どうして兄がこのような対応をとっているのか分からなくて、きょとんとしている。
 その女性の目を、兄は見つめる。
 女性の瞳は何処までも透き通っている青空のような色で、感情を見つけるのは難しい。夢見ている。強いて言えばそんな感じ。
 ゆっくりと、駄々っ子に言い聞かせる要領で丁寧に
「お前の母親は、お前を産んで、すぐに死んだよ」
 そう、兄は宣言した。

 ラテが、眼球だけを動かして、空を見上げた。
 そして男性に視線を戻す。兄の、くすんだ蒼い瞳を真っ直ぐ見た。
「忘れてたの。ごめんなさい」
 先程の口調とは打って変わって、優雅な虚静を持った声。彼女独特の旋律だ。
「ママの死んだ街は嫌ね。人が多い」
 言い訳するように、付け足す。
 恥じらっているのか、頬が紅い。
「そうだね。人が多い」
 兄の同意を合図に、2人は歩き出した。人波に紛れる直前、音を立てないように硬い物を置く時の静けさで
「ママの声なんて、外に出てから聞いてもないのに」
 ポツリと囁く。
「胎内で聞いた声なんて、覚えていても意味は無いの。水の中に居たんだから」
 兄は同意も否定もせずにいた。それは同意だと、ラテにだけは分かった。兄が時々見せる、こういう困惑したような、しかし曖昧ではない雰囲気がラテは好きだ。同じ経験を持つ仲間だと、空気で直感させてくれる。

 自分の右手を、兄の左手に滑り込ませる。ラテが手を握っても、別に兄は握り返したりはしない。いつもの事。そのまま50歩ぐらい歩いた。ヘッドドレスの飾りが、歩くリズムで揺れる。母の遺品。街が煩い。煩い中を、ずんずん進む。ラテは片耳だけ手で塞いで、間延びした声を出してみる。水の中に居る時のような声が体に響く。

 ただし,母親の声は母親の横隔膜を通じて伝わるため,外部からの音よりも鮮明で,出生後に近い状態で伝わる。
(平山諭 鈴木隆男『ライフサイクルからみた発達の基礎』
ミネルヴァ書房)


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08.03.26 08.08.14修正