この様に、人間の本性は存在しない。その本性を考える神が存在しないからである。人間は、みずから望むところのものであり、実存してのちにみずからの考えるところのもの、実存への飛躍ののちにみずから望むところもの、であるにすぎない。人間はみずからつくるところのもの以外の何ものでもない。
(サルトル『実存主義とは何か(抄)』筑摩書房)

輪郭がぼやける恍惚

 テルルは文庫から顔を上げ、凝った首を解すように頭を振った。それだけでは足りず腕を伸ばす。左手首のブレスレットが、飾りの浅紅色の石を揺らして、上腕に向かって少しずれた。

 それは、窮屈だった。

 やたら細かった腕にも、第2次成長期の恩寵で程よく肉が付いてきた。テルルは暫くブレスレットを見詰めていたが、はたと立ち上がって部屋を出た。ブレスレットが、重力に従って手首に戻っている。抜け落ちそうになりながら、それでも飾りは彼女の手首を彩る。

 彼女と彼女の家族は森の中に住んでいる。そこから歩いて行ける範囲に開けた丘があり、テルルはその丘から落日を見るのが好きだった。まだ太陽は高い位置にあるのだが丘に向かった。見晴らしのいい場所に居るのは、狭い部屋で難しい本を読む事よりは気分が晴れやかになる。彼女が悩んだ時に向かうのも、その丘だ。

 ほら、風の精霊と樹木の精霊が戯れているのが目に見える様だ。

 辿り着いて暫くの間はその様子に目を奪われていたが、再び、腹に鉛を流し込まれた様な心持ちになる。木にもたれてしゃがみ込む。


 あぁ、例えば、例えばの話だけれども、本性という物が、サルトルは存在しないと言った物が存在していて、それは、それを考える神か、それに似た存在がいるという事だけれど、

 神、もしくはそれに似た存在が、もしもの話だけれど、もし、私の本性を、

 存在させていたとしたらどうしたらいい────?

 風が木々を取り残して空高く高くに去ったのが感じられた。

 彼女の種族は特殊な物である。1つ1つの個体が各々、何らかの運命にも似た使命を、刷込みでもされたかの様に抱いているのだ。その使命を果たす為だけに生きている同胞も少なくはない。寧ろ、その為だけに生きていない自分は、かなりの異端かも知れない。
 そう、彼女が気付いた時、彼女は愕然とした。

 生きる理由が明確に示されている事に愕然としたし、それが果たされた日の事を考えて戦慄した。今までその重大さに気付かずに過ごしていた自分の無知を罵り、同時に非道く羨ましく感じられた。同胞とは違う生き方をしている事に、足下が崩れる孤独に取り憑かれて涙した。血の繋がらない両親の姿を、何の使命も刷り込まれていない種族を見ると嫉妬したし、その影で安堵に似た優越感が疼くのを感じて自己嫌悪に陥った。

 日々が過ぎるのがとても速くて毎日怖かった。彼女は今とても怖れている。自分に本性がある事を。その所為で、自分の望む者になれないかも知れない事、何よりも、自分の本性に似合っただけの自分であるのかどうか否かを。

 日々が過ぎるのが、とても速くて毎日とても速くて、怖かった。

 夕日は最初はゆっくりと、しかし地平線に近付くにつれどんどんと速度を上げる。夕日は地平線に乗っかっている山にしがみついてしがみついて、山はテルルにとっては太陽を隠す者だったけれど太陽にとっては大切な物だ。

 太陽にとってはテルルという自分はどうでもいい存在なんだとテルルは直感した。

 声を持たないテルルの声を、目を持たない太陽はきっと聴く事が出来ないだろう。

 だから。

 ああ、

 何だか、ひとりぼっちだ。

 サルトルも太陽も、私の事なんて知らない。

 そう思うと、とても寂しい。
 刹那主義である訳ではないけれど、今寂しかったら死んでしまいそうだ。

 むずかしい事なんて、本当はもういいんだ。

 本性なんて、もうどうでもいいよ。

 今寂しかったら死んでしまいそうだよ。

 今満たされなかったら、未来なんてどうでもいいよ。

 未来のために頑張るくらいなら、今の寂しさどうにかしてよ。

 太陽が地平線の山にしがみついて、1つの日中を延ばそうとしている。まだ世界は明るい。沈めば暗くなる。それももうすぐの話だ。
 初夏と言えども日没が近付く程に風が冷たさを持ってくる。冷たさに落輝が反射して、彼女の銀髪をちらちら誘った。

 さわさわと音がする。草の、空気と擦れたりする音が、やわやわと耳をくすぐる。さわさわ……と。
 さわさわ……、と。


「愛の光
 世界包む涙
 いつも 太陽は輝いてる」


 テルルは、ふっと、顔を上げた。其処に居た女性と目が合って、歌声が止まって、その女性はふんわりと微笑んだ。
 冷たい風が運んできた輝きが、彼女の銀髪と表情をゆうらりと照らした。
 女性はテルルから太陽を向いて、


「いつも 太陽は輝いてる
 忘れないで
 僕は傍に居ると」


 続きを歌って、山にしがみついている夕日に微笑みかけた。

 まま。

 テルルはその女性に心の中で呼び掛けた。胸がいっぱいになってしまうような大きな声で。

 どうして生きる事について考えてしまうの?

 母親は手を差し伸ばす。さぁ、暗くなる前に帰ろう、と。逆光になって、銀髪が柔らかいオレンジに浸食されていた。表情はまぶしくてよく分からなかったけれど、全部解った。

 まま。

 こんなに愛されているのに、どうしてこんなに寂しくなったの?

 心がいっぱいになってヒビ割れたら、きっとそのヒビから感謝の気持ちが溢れるよ。

 ママ。

 今寂しかったら、私は、死んでしまいそうだった、よ。


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06.06.17 08.05.22修正