落日に君は何を悔やむのか

 草原を、ぐるっと森が囲んでいる。まるで世界から隔離されているかの様な土地には清んだ泉があり、その岸辺にはスコールでもくれば簡単に飛んでいきそうな小さな家があった。

 この家には、鍛冶屋と名乗る細工職人と、その唯一の弟子が住んでいた。

 ガタがきている入口のドアを開ければ、腰程の高さの陳列棚が左手にあり、そこには鍛冶屋の手による作品が並んでいる。陳列棚がちょうどカウンターになっていて、その向こう側に店主でもある鍛冶屋が座るという造りだ。
 そしてその奥には仕事場と調理場が一緒くたになった部屋があり、客に男2人の生活の一面を見せていた。

 辺境の上、細工等を必要とする人物も少ない殺伐とした御時世という事もあり、客は滅多に来なかった。

 そういう訳で、鍛冶屋の弟子は師匠の暇潰しに使われる事になる。

 細工の修行を期待していた弟子に、何よりも先に覚えさせたボードゲームのルール。星座の名前。
 聴唖である弟子に、地方によって念や気等と呼ばれる物を使っての声の造形を教えたのも鍛冶屋であれば、酒を教えたのも彼だった。

 今となってはいい思い出である。まるで父親が2人になった様だった。そう、弟子は思っている。

 その日はいつもの様に晴れていて、少し汗ばむ位の陽気だった。その日、鍛冶屋は死んだ。
 その次の日、かつての弟子は鍛冶屋の名を受け継ぎ、鍛冶屋になった。

 その日たまたま2人の様子を見に行ったシーナという男性が、思い出せる限りの事を記そう。

 シーナの土地の暦で言うところの14月3日だった。シーナは14と3の数字が好きだからという理由で遠出をし、2人のところへ赴いたのはそのついでだった。草原を歩く、その途中で、彼は違和感を感じた。普段には無い匂いを感じたのだ。

 ああ血だ。それもあちこちに沢山。彼はそう直感した。そして淡々と、争う様な声が聞こえないから、恐らく盗賊を返り討ちにした後なのだろうと予想をつけた。

 いつもの様にシーナがドアを開けると、彼の予想通りの光景があった。

 生きている個体が1つしか無い事も、その生きている個体が弟子の方である事も、気配から判っていた。

 弟子は顔色1つ変えないシーナを見付けた。彼は固まりこびり付いた血に[まみ] れた腕で、しっかりと倒れている鍛冶屋を抱き締めていた。

 大切な人を失った記憶の無いシーナには、それがとても愚かに見えた。

 シーナは鍛冶屋だった物に近付こうかとも思ったけれど、弟子の様子を見て、止めた。代わりにカウンターの向こうへ回り、鍛冶屋が座っていた場所へ行く。椅子の側に造り付けの机があって、生前言われていた通り、上から3番目の引き出しを開け封筒を見付けた。取り上げて、家に来た手紙を確認する気楽さで、彼はシーナ=トゥ=タイミングと書かれた封筒を抜き取った。ついでに思惟夜と表書きされた物が目に留まったので、死体を抱き締め、自身も死んだ様に動かない弟子に持って行ってやる。

「スィーヤ」
 名前を呼ぶ。動かない。

「スィーヤ。まさかお前も死んだのか?」
 シーナはしゃがんだ。スィーヤの、強張った表情がよく見えた。表情と同様に強張った目を見詰めて、彼は死体の頬を撫でた。
「気持ちの問題、と言う言葉はあるが、無駄だ」
 まだ暖かい死体。すっかり凝固している血溜まりを見るに、明らかにおかしい。
「スィーヤ。死体は保温しても冷めないだけだ」
 今度は項垂れている弟子の頬に手を添えた。彼の藍色の瞳は曇っていて、雨を降らせているのがよく判った。

『……あの時』

 どの位時間が経ったか、弟子は声を紡ぎ出した。
『俺が、側にいれば。もっと、客に注意を払っていれば、賊だと気付けたのに』
 シーナは無表情でそれを聞き、
「不毛だ」
 と、一言放つ。
『そうすれば師匠は死ななかった!!』
 聞こえないのか無視したのか、弟子は声を荒げた。
『死ななかったかも……!!』
 悲痛の叫びにも聞こえたし、シーナの声を否定する必死の抵抗の様にも感じられた。
「そうしても死んだかも知れない。生き死には、自然の決める事だ」
『俺は生物の寿命が定まっているとは思わない!』
「もし定まっていないとしても、死んだかも知れない。…………側にいたら、お前も死んだかも知れない」

 日が暮れているところなのか、気温が徐々に下がり、あらゆる物もそれに倣う。泉水、土、涙も。

「お前がいなかったら、鍛冶屋はもっと非道い殺され方をしたかも知れない。作品は全て壊されたかも知れない。――これは、最悪ではない。スィーヤ、悪い方向にばかり考える必要は無い」
 スィーヤは口を動かした。何かを呟いている様だったが、声を持たない彼が何を言おうとしているのかまで、シーナには判らなかった。

 沈黙が夜の海の様に横たわって、2人の気持ちを冷たくする。

「思惟夜」

 シーナがそう呼び掛けても、2人に覆い被さって窒息死させようとする沈黙は消えなかった。

 しかしシーナが手を軽く頭に乗せると、スィーヤは諦めたのか、彼の師匠を包んでいた念を解いた。シーナはそれを感じて、頭を撫でてやる。スィーヤの黒い髪の毛が、微かに震えた。


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06.05.29