悲しいね。
片目を潰してしまってから、いい事なんて何にもないね。
鏡に向かって、ドールは小さく小さく呟いた。心の中に留めておく筈の独り言が、意図せず漏れてしまった時よりも小さく微かに。
掠れた声。
まだ若い学生だと言うのに、瑞々しさの気配も無い。
やせ細った不健康な体に、染料が悪いせいでボサボサになってしまった金髪がよく似合う。髪の根元では少しだけ彼本来の銀髪が、強かな輝きを見せていた。人形のように繊細な顔立ちのドールが、鏡と向かい合わせになってから半日。ベッドに座ったままピクリとも動かない姿は名前の通り人形のようで、自分でも自分が不思議だった。
(なんで、人間なんだろ)
鏡像の端で何かが動く。
ベッドで何かが動いた。
何かは男だった。惰眠を貪り飽きたらしい。
「髪は染めない方がいい。もったいない」
ベッドに横になったまま、男は言う。目覚めの挨拶くらいすればいいものを。そう思う人がこの部屋にいないのをいい事に、彼は好き勝手に話を続けた。
「どうせ、銀髪だってバレてるんだろ。なら、染めない方がいい」
「おはよう、王さま」
ドールが口だけを動かして、男の話を無視する。王さまというのは勿論ニックネームだ。本当に彼が国王だったら、今頃ドールの首と体の間で可哀想な事が起きている。将来の夢は王様だと、初めて会った時に彼がそう言ったのだ。王様になったら、ドールを国民にしてあげる約束もした。だから、彼はドールの王さま。
王さまが体を起こし、ガシガシと乱暴に頭を掻いている。少し不機嫌そうだ。それを鏡で確認して、お人形さんは立ち上がった。
「水、取ってきてあげる」
寝起きの不機嫌なのか、話を遮られた事に不満を感じているのか。後者の可能性を考えたら、その場にいたくなかった。逃げる事は美しくないと教科書は言っているけれど、いざとなれば美醜なんて気にならないものだ。
その場を離れる……とは言っても、ここはホテルの一室に過ぎなくて、自由に歩ける範囲はとても狭い。水差しに小さなタンクから水を入れて、コップをテーブルから持ってきて、終わり。ナイトテーブルに一式を置いたドールに
「オブリガード」
王さまが、気の抜けた声で言う。知らない言葉。元の位置に元のようにキチンと座ったドールが無言でいると
「ありがとうって意味」
と補足が入った。
「お前って本当、世間知らずだな」
王さまが笑った。外国語なんて、この国では特殊な役職に就いているエリートしか知らない。そのエリートも、知っている言葉は少ないだろう。外国人の王さまに言わせれば、この国の人民全員が世間知らずなのだ。
圧倒的に不利な立場で馬鹿にされたドールは、それでも腹を立てたりせずに水を注ぐ。右後ろに体を捻って
「はい」
王さまに渡して、王さまが一気に飲み干すのを見つめる。いい飲み方だ。少し口から零しているのも、美味しそうに見えて好ましい。
王さまが飲み終わったコップを差し出してきたから、もう1杯注いでやる。今度は半分くらいしか飲まなかった。今度はそれを差し出してきたから、ドールは1口飲んでナイトテーブルに戻した。
「王さま」
呼び掛けに王さまは「ん?」と、やはり気の抜けた声を出す。
「さっきの、王さまの故郷の言葉?」
質問に、男は即答で返す事もできた。彼が何か外国語を話す度に、ドールはこう訊ねてくるのだから。そして答えは決まっているのだ。
しかし彼は時間を少し、考えるように費やしてから
「違う」
と答えた。
ドールも半ば予想はついていたらしく、落胆した様子は無い。再び鏡と向き合っている。男の知っている限り、ドールはよくこうしていた。
重たくも痛くもなく、強いて言えば湿気た沈黙が降りて数分経った。その間、王さまは鏡越しに相手の表情を伺っていた。閉じられた右目、ウインクが下手なのか、少し歪められた左目。それらを見渡すように見つめながら一言。
「今度、連れて行ってやろうか」
ドールの、つむられた唇がピクリと反応した。イレギュラーな誘いだ。右目が開いて、何処を見る訳でもなく、何を見られる訳でもなく、ただ前を向いている。男の視線に気づいて、左目が鏡から逸らされた。潰された目が機械的に従う。
何と返そうか迷っている。
今までも、冗談で「外に出る」話をしてきた。この強固な国境を抜け出したら、王さまの国民になれたら……そんな話を、ベッドの中1つの毛布で体温を共有しながら、あるいは向かい合って、暗闇の中で、朝日の中で。
しかし、今度のは違う。
そう悟ってしまったから、ドールは恐い。
恐い、というのは間違っているかもしれないが、確かにドールの体は人形のように竦んでしまって動かない。
どうして悟ってしまったのだろう、多分、声が、気が抜けていなかったから。
ドールはバレないように深呼吸をして、項垂れる。体の力が半分になってしまったような仕草だった。だから、王さまはドールが倒れると早とちりしたのか
「あ」
間抜けな声を出しながら、ドールを抱き留めようとする。右後ろにいた王さまの右手は、ドールの右側に伸ばされた。ドールはその気配を肌で感じて、何よりも素早く振り返る。酷く怯えた顔をしていた。鏡を見ていないドールは、その顔を知らない。知らない方がいいと、男は思う。ドールは、自分がこんなにも怖れていると気づいていないのだから。
行き場を失った右手が彷徨って、ドールの右手に舞い降りた。
「来いよ」
自然と言葉が出た。
指をドールの指と絡めて、力を入れる。母親に目を潰された可哀想なドール。その過去を怖れ続けている、心がそこに囚われたまま動かないお人形さん。音声の出るオモチャのように不器用に、吐露して泣いていたドールを思い出す。その時ドールは笑っていた。もしくは無表情だった。しかし、男の目に映るドールはそれでも時々泣いていた。
「お前の髪を見たら天使だって騒ぐ国、見たいだろ?」
懇願するような声が出た。
死角を補い、自らの髪色を確かめられる便利な鏡。今、ドールはその冷たくツヤツヤしたものを見る事もできず、仕方なく目を閉じた。両眼が盲目になった。眠っている時のように、気怠い静寂。
「王さまは……」
湿気った沈黙が長い間居座った後、出てきた言葉の最初はそれだった。
「恐くない……?」
続いた言葉に、王さまは首肯する。
「外の世界が敵だって事以外、何も学校は教えてくれない。出て行くなって」
そうだね。王さまが穏やかな声で認めてやる。
「それでも、王さまは恐くない……?」
泣きそうに、優しい笑みを浮かべた王さま。盲目のドールがそれを見る事は無かったけれど、ゆっくりと振り返り、ベッドの上に座り直して向き直り、焦れったいくらいに丁寧に両眼を開いたドールは、どこか微笑んでいるようにすら見えた。