繋ぎ、繋がれ

 生活スタイルというものが変わる機会はそれ程ない。それは毎日繰り返す内に厳選され簡略化され、洗練された、もしくは堕落した形に収まってゆく。月野は長年の生活スタイルに則って起床し、世界も変わる事なく太陽が昇った。

 彼女が服を着替え髪を梳かす姿を、大きなボウウインドーから入る光が愛でる。普段は部屋が明るくなるまでに身支度を済ませている彼女だが、この森にも夏が来ているのだろう。日の出が早い。
 そうした僅かな差が少し意識に引っかかる。だから、彼女は夏になるこの時期があまり好きではない。夏になれば、なったとしても気温は僅かにしか上がらないのだが、なってしまえば慣れればいい。僅かな差に合わせればいい。しかし春とも夏ともつかないこの時期は困る。日々の変化に気付かず、ひょんなところで足下を掬われ、生活スタイルが崩されてしまうのだ。今日の様に。

 何か、普段にない事が起きる予感はあった。

 まず、ラテがいつもより早く起きた。月野の中のちぐはぐさが外にはみ出したのを、幼い彼女は感じたのだろうか。ベッドの上にぺたんこ座りをして、小首を傾げて月野を見詰めている。実際にはラテ本人はその様な事は感じておらず、起きたのにまだ朝食が出来ていないという怪現象にキョトンとしているだけだ。しかし、それを知る筈もない月野は、少し、身体が竦んだ。
「おはよ」
 ラテの小さな口が、一生懸命働いて挨拶をする。
「おはよう」
 大袈裟な言い方だけれど、身体の自由が戻るくらいの衝撃だった。月野は昨日した様に挨拶を返した。起きたら挨拶をする。そんな毎日の習慣が、ささくれだった神経を整えていくのを感じる。
「早いのね」
 続けるのと同時に気付く。今日は家族が1人足りないのだ。いつも3人で1つ、月野が起きると2人で1つのベッド。今日は1人で、寂しかったのかも知れない。あぁ、何だそういう事か。
 先程よりも高いところに昇った太陽が、今度はラテの銀髪を愛撫し輝かせている。キラキラ眩しくて、月野が感じていた暗いunusualな気持ちが照らされて消えていく様で安堵する。

 しかし、予感は当たった。
 朝食の後の鶏の世話。フリルやレースが大好きなラテにオーバーオールを着せて、2階の生活スペースから1階に降りた。裏口から出る。家の左隣に柵があり、その中に鶏がいて、とても広い、とは言えないが狭くはない鶏の為の地面を、鶏達は細い足で蹴っている。
 ちょうどいい大きさの卵を産み、肉が美味しく、しかも飛べない。どうしてこんな不幸な身体になったのか。いや、人の手によってこんなにも繁殖に成功し進化し、むしろ種としては成功なのか……。月野に判断はつけられないが、この柵の中に囚われている鶏の内、今ラテが大切そうに抱き上げているメスの鶏は明日絞める予定だ。卵を産まなくなったから。適切な判断の様な、違う様な。ラテから見たら間違っているんだろうな。
「ラテちゃん、鶏さんのお家お掃除して」
「はーい」
 ラテは大切そうに抱いていた割には、幼い子ども特有の大雑把さで鶏を放した。茶色と白の羽が、クラッシックセーターを着ている様な模様を作っている彼女。声がちょっと可愛いからラテのお気に入り。

 伝えるべきなのか。いや、伝えなくてもいつかバレる。
 隠してもきっと気付かれる。

「どうしたの、つきのちゃん」
 ほら、この子はこんなに勘が鋭い。
「ちょっとボーっとしちゃった。寝不足かな……」
 月野は苦笑してみせる。そして「ラテちゃんも早く起きたから、眠いんじゃない」何て言ってはぐらかす。
「ねむくないよー」
 そう言ってラテは笑う。輝く様な笑顔とはこういうのを指すのだろう、彼女はいつもお日様を浴びてキラキラしている。朝みたいに。
「…………」
 月野は自分の意識に再び暗い影が頭をもたげているのに気付き、その瞬間身体中が緊張して引きつったのを痛みの様に感じ取った。一瞬だけ。だけど、怖い。悪い予感がする。どうして自分は危険を冒そうそうとしているのだろう。

 きっとラテは、最近急速に人間らしさを発達させてきているラテは、以前まで知らなかった鶏と鶏肉の因果関係を悟るだろう。だから不安。不安なのだ。彼女が悲しみ苦しまないか、それを自分が乗り越えさせる事が出来るのか。そんな、母親がするみたいな事が出来るのか。

「つきのちゃん?」
 月野を見上げているこの、何処までも透き通っている空の様に青い瞳は、きっと曇り雨を降らせる。
「ごめん、お仕事しないとね。後で一緒にお昼寝しよっか」
 いいよぉ。そう答えるラテの声に救われながら、この場を切り抜けるしかない様な気がした。
 しかし、きっといつか悟る日が来る。もしかしたら、それが今日なのかも知れない。
 朝から少しそんな気配がしているのを感じる。鶏を締める予定があったから、そう感じていただけかも知れない。

 ……どうして自分は危険を冒そうとしているのだろう。
 本当に、唐突に言葉が脳を通過した。避けられるなら避けるのが当然だ。月野は戦争に携わって知ったのだ。避けられるなら、避けられるのならばそれが1番だと。
 でも、きっとこれは、ラテが生き続け、月野がその人生の傍にいるならばきっと避けられない。これはきっと定めだ。月野は昔、戦争を生き抜いたあの日にラテの人生を背負うと約束したのだから、きっとその時に定まった世界の流れだ。
「ラテちゃん、聞いて」
 意識するより速く、口が動いてしまった。そして同時に泣きたくなる。どうして、自分は戦争を基準にしているんだろう、と。命を奪う事は戦争と変わらない、でも違う。多分違う。
「なに?」
 ラテが振り返る。銀髪がふあっと広がって、白い肌が透き通って、彼女が太陽であるかの様にキラキラしている。暗い黒い髪の自分は惨め。いや、戦争で加害者になった自分が惨め。母親になれていない自分はそれと同じくらい惨めなのだろう。
「私のお母さんがしてくれた話をしてあげる」
 ラテの足下で、クラッシックセーターの彼女が小さく鳴いている。
「精霊は世界を廻っている。それと同じように魂も世界を廻っている。水は雨になって川になり、また雨になる」

 ため息を、いや、ため息に似た息継ぎをする。

「世界は回っているの、精霊の手で。それと同じで、命が回るの。ドングリをリスは食べる。リスを狐は食べる。食べられる事がなくても、死ねば土になってドングリの木の栄養になる。……その輪から出た者は、世界から落ちて必ず滅びる」
 そこまで言って、勇気が消耗されてきて、少し疲れた。ラテが月野を真っ直ぐに見上げている。ラテにはこんな惨めな紛い物にはなって欲しくないと、強く思った。きっとラテに子どもが出来た時、立派にこの世界の姿を説明して欲しいと思う。だから、月野は母親からの伝言を彼女に伝えなくてはならないのだと悟った。
「ラテちゃん、私達は沢山の命で、この世界の輪の中に繋がれている」
 感謝しようね。そう月野は微笑みかけて、ラテも微笑みで同意した。
 この微笑みのままいて欲しい。でも出来ない。
 月野は次の言葉の為に、昔母がしていた様な、大きい息継ぎをした。


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07.03.24 08.06.23修正