冷たい金属の音

 大きなボウウインドーから見える星空が、今にも部屋に浸蝕しそうだった。
 流れ星が、涙か、切り傷のように見えた。
 少し、肌寒い夜だった。

 月野が跳ね起きる。
 ベッドの上で上半身を起こし、驚いたように目を見開いている。息の仕方を忘れた口が無駄な動きをしている。彼女の肌には嫌な汗が滲んでいて、長い黒髪が貼り付いていた。
 彼女は上半身全てを使い、意識して深い息を吐く。呼吸の仕方を教わった肺が、たどたどしく活動を再開した。
 バスルームに行きたくて、足を毛布から出した。床に足先をツッと差し出すと、少し伸びた爪が床に当たった。

 冷たいシャワー。
 体にまとわりつく嫌らしいものを、可能な限り洗い落とす。排水口からズルズルと落ちていく水に、どれだけのことが出来ただだろうか。大きなタオルに包まれて部屋に戻ると、流れ星が磨かれた床に白い姿を映していた。彼女の濡れた髪に、星の光が迷い込んでいる。千古の昔から止まない星雨。見慣れた現象は、今夜ばかりは宇宙の崩壊を予感させた。月野の肌がざわめく。
 その慄然は、ドアを開けたままの彼女を絡め取った。幾許の時間が流れただろうか。時間とともに拘束も弛む。彼女は現実から目を背けるように伏し目がちに、キッチンスペースへと歩き出した。

 グラス1杯の水を飲むと、いくらか落ち着く。
「水は、人に静けさをもたらす」
 呟いた。
 馬鹿みたいな言葉だと思った。
「そんな言葉、どうして覚えているの?」
 後ろから声をかけられた。突然のことだったが、予想よりも遥かに平静だ。月野が振り向くと、背後のベッドに人影があった。窓を背にしているその人物の輪郭を、星明かりが銀色の光にしている。
「馬鹿馬鹿しい言葉だ」
 人影が続けた。聞き取りやすくて、透明な響きのある男声だ。その声が自分の思ったことと同じことを言っている。月野は同意するように弱く笑んで、ベッドへと歩を進め始める。

 ベッドに腰かける。足を毛布に仕舞う。
 月野が居場所として選んだのは、男に手を伸ばせば触れられるか否かという距離だった。お互いのプライベート・ゾーンに侵入する、直前の距離。それを感じ取って、男は彼女を抱き寄せた。
 輝きが衰える前の新星ばかりを集めて取り込んだような男だ。銀髪も、白い肌も、憎い程潔白に見える。しかし、この男も戦争をしたのだ。
「シーナさん」
 抱かれながら名前を呼んで、その男の体温に意識を向けてみる。シーナは他の人より温かい。他人の命から奪い取り、吸い取り得た熱だ。シャワーで表面だけ冷えた体にも熱が染み込んで、もう、2人とも温かい。
「夢を見たの」
 月野の独白。
「自分がいて、それを見てる。……熱かった」
 彼女はそれしか言わなかった。しかし、2人は殆ど同じビジョンを共有できた。

 行く宛の無い熱が、いつも不気味な影を落としていた国。
 戦争が始まったのは、春が始まろうとしている頃だった。冷たいような、心地良いような春風が吹いていて、涼しかった。そう、最初は涼しかったのだ。兵士が命とともに落とした魔力は、熱に分解されて敵の兵士に染みつく。とても上手く循環していた。
 しかし戦争は長引く程に、見えない形で人々の命を削るものだ。戦場に行くことのない女や子どもの命をも、戦争の重圧は掠め取った。あぶれた熱は空気を悪くする。それは風に乗り国を覆い尽くして、戦場で響く金属の音さえも、熱にうなされたように歪んで聞こえた。

 2人は──2人は涼しいところにいて、仲間とその音を聞いていた。
 体の中が焼けるように熱くて、うなされた。誰もその現象について言及しなかったけれど、皆、暇さえあれば水を飲んだ。
「水は、人に静けさをもたらす」

 彼らはついに、直接的な生命の危機に立ち会わなかった。
 だからだろうか、今でも、こんなにも命が熱い。
 月野はシーナから体を離して、俯く。両手をシーナの両肩にかけたまま、シーナの心臓の鼓動を見ていた。2人の間に冷たい空気が通って、火照った思考を冷静にする。
「武器を運んで来たの。戦争が終わりに近付いた頃。弱い武器だった」
「銃だね」
 シーナの言葉に、月野は頷く。彼が言外に示した「同じ記憶を持っている」というサインを受け取って、月野は嗚咽をあげた。涙が、予想以上に熱い。彼女はそれから逃れるように、か細い叫び声で
「重たかった。馬鹿みたいに重たかった。大した力も無いくせに、馬鹿みたいだった」
 と、同じ言葉を繰り返す。
 その彼女の背中を、彼は優しく撫でて、時折軽く叩いた。
 疲弊して魔力を攻撃に使えなくなっていた兵士のために、彼らが用意した銃は本当に重かった。魔法と違って、銃は相手が死んでも手に残る。
「大した力も無いくせに」
 そこまで言って、月野は咽ぶ。
「あんなこと……すべきなのか、本当は分からなかった!」
 意図していたよりも大きい声が出て、急に悲しいような、情けないような、大き過ぎて判断できない気持ちが月野の心に現れて負けて、泣き沈む。月野が手で涙を拭き取ろうとすると、涙は嫌な感触を残しながら腕を伝う。シーナは黙って、彼女の頭を撫でた。片割れ星が、月野の髪に光を落とした。
「月野ちゃんは優しいね」
 シーナはそう言い、タオルで月野の涙を拭ってやる。彼女は先の言葉にも、この尽くしにも反抗しなかった。左手を取り、濡れた部分を拭く。
「俺は、依頼を達成することしか考えていなかった」
 言いながら、指と指の間まで、穏和な仕草で拭き取った。
 初めての吐露だった。それにも拘わらず、彼の声は静穏だ。
「守るように依頼された子達と、依頼人と、自分達が殺されないように」
 右手を取る。
 咽が渇く。
 取られた右手が重い。
「だから、疲弊した兵士を無理矢理戦場に送り込んだって、何とも思わなかった」
 月野は急に、ああ、これが罪の重さだと、何となく思った。
 自らの手を汚さずに、大勢の命を奪った人間の手だ。
 涙が止まらない。
 水が欲しい。
 敬命な仕草で、涙粒にキスされた。熱に焼かれた咽が、心許りに潤った気がした。
 錯覚だった。

「水を取ってくるよ」
 そう言って、シーナは月野から体を離す。
 ベッドから降りると床が冷たい。エントラスで靴を脱がせる彼女の家は、こういう時によくないと彼は思う。
 左手の指にグラス2つを挟むように持つと、グラス同士が接触する音が微かに響く。2つのグラスに氷を入れて、水を注ぐ。恐ろしく平和的な動作だ。日々の全ては、こういう平和的な動作の連続で出来ている。その事実は、彼を少しだけ寂しくさせた。
 振り向くと、ボウウインドーの外に空が見えた。
 几帳面な彼女に磨かれたガラスは存在を主張しない。星がすぐ傍に感じられる。
 絶えず変化する星空を、シーナは目を細めて眺める。
 ベッドへと歩を進め始めた。

 辿り着き、シーナは、月野を立ったまま見下ろしていた。
 月野は泣き止んでいた。泣き止んだばかりの目で、シーナを見上げていた。子どもが母親を見るような、純粋な視線だ。
「はい」
 そう言ってシーナがグラスを差し出すと、月野はそちらを確認して、受け取った。グラスの水面を見つめている。その様子を、何も言わずにシーナは見ていた。
 グラスに水滴が付着し始めた頃、もう1つ、大きな流れ星が夜を走った。
 その光が2人を包む。
 銃を詰めたケースを開ける時の、留め金の外れる金属音が耳に染みついている。
 彼女は、むしろ優しさすら感じさせるような力の無い声で、そう告白した。
 シーナは沈黙で、それを迎え入れた。
 何が、彼女の慰めになるのかシーナには分からなかった。だから黙る。彼女に疎外感を与えてしまわないかが、唯一の心配だった。
 月野は水面に見入っていた。それの様子が、彼の憂いを成長させた。ぞわぞわした気持ちが、彼に何かを言わせようとしたその時、
「シーナさんは、優しいね」
 月野が呟く。
 彼のくれた水に、星夜が閉じ込められていて綺麗だった。
 それに気づくと、彼女は少し、安心した。
 グラスの中の星は、宇宙の広さを予感させてくれる。
 発言は、当初は彼の態度に対して言及したものであった。彼の受け入れるという態度は、いつも徹底して柔らかい。しかし、今は別の言葉が月野の心に浮かんでいる。
「守れる程、誰かを愛しているから」
 今度は強く、紡ぎ出された。
 シーナは思ってもいなかったことを指摘されて、目を見開いて驚く。
 戦争に荷担するという重圧感に苛まれながらも、彼はやり遂げたのだ。彼は、自分の行動を「命を軽視しているから出来るのだ」と解釈しているらしいが、命を大切に思わない人が、どうして他人の命を背負えるだろうか。
 グラスに付着し始めた水滴が、2人の手を濡らした。
 その感覚に刺激されて、月野は静かに視線を上げる。シーナは、呆然と形容してもいいような、ちょっと変な表情をしていた。彼らしい。本当に、彼らしい。

 月野が、肩を緩やかに使って溜息をつく。
「生かされたのね。私。貴方に」
 声が潤んでいる。今まで、彼女がどうしても言葉に出来なかった事実だった。溜め涙の瞳が、やんわりとシーナを見つめる。
 生き残ったという責任からは、贖罪をどれだけ重ねても逃れ得ない。そのプレッシャーの中で、生きていく自信が、否、覚悟が無かった。熱に徒に焼かれることしかしなかった。
 だから、シーナの告白はショックだった。
 生き残った責任、それも、誰かに生きて欲しいと願われた結果ならば尚更重い。その衝撃に怯えると同時に、彼の罪の深さと成し遂げたことを想って涙したのだ。自分の醜さを突き付けられたと思った。涙を流してその嫌らしさを感じる程に、顧みる程に自分の命の重さが変わったような気すらした。
「精霊に祈りを。生き残ったことに」
 シーナが宣言した。月野は答えを探す。
 彼の告白を受け入れ、彼の愛をこれからも感じるためには、月野は奪った命と同じ重さの責任を背負わなくてはならない。
 シーナは微笑みを以て月野を見守っていた。
 熱に焼かれた痛みは奥深くに鈍く響く。爛れたように胸が重い。
 月野は、慎重に手を伸ばす。
 ああ、これが罪の重さ。
 グラスの水滴が一条流れて、彼女の肌を冷やす。
「未来に」


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