紅く滲む

 殺せ。そう言われて、10エアストは経過しているような気すらクロスにはした。
 彼が剣をいくら振ろうと、いくら足を踏み出そうと、目標の服すら掠めていない。
「何故今首を狙わない」
 脇腹を狙った太刀筋を、恐ろしく自然な仕草で避けられる。
 銀髪の印象によく似た、冴え冴えとした若い女が声の主だ。盗賊【良夜】の頭、よく、プラチナと呼ばれる。──恋人の妹。
「体勢を大事にしなさい」
 喉元に木の枝が突き付けられた瞬間、クロスは空を見上げていることに気づいた。
 圧倒的な力の差だ。いや、純粋な腕力なら、クロスの方が何倍も強い。女の細い指が凶器を握っているのが、視界の端に映る。
「倒されても、殺されるまで反撃しなさい。今回はこれで終わり」
 疲労で崩れた構えの、足を掬うのはどんなに簡単だったか。今日だけで自分を17回殺した女を見上げながら、クロスは漠然とそう思った。

 昨夜から、唐突に訓練は始まった。
「2人が付き合って丁度1週間だから、私もケジメをつけようと思う」
 彼女はシーナの家に来るなりそう演劇調で美しく宣言して、
「だから、クロスを貸して」
 そう続けた。彼女は以前から2人が付き合うことに、シーナと月野が別れを決意することに反対していたから、ケジメとは現状を受け入れることだろうとクロスは予測して、そしてそれは当たっていた。しかし、その内容は、全く想像していないことだった。
 ケジメのために、昨夜からクロスは殺され続けていた。

「今回は6エアストも耐えたね。珈琲も淹れられないよ」
 計測係の青年が愉快そうに笑うのをやり過ごす。戦いについてはクロスが後輩であるが、年上として、このような励まされ方は楽しいものではない。
 何より、今は精神が逆剥けだらけのようにピリピリしている。彼女の住処、つまりここへと連れてこられた際、何よりも最初に、
「気を抜を抜いたら殺すから」
 と言われた。事実、油断の度に疑似的な暗殺が繰り返され、その度に木の枝や靴先が急所にぶつけられている。そしてこれだ。

 盗賊達のねぐらを端へと進んだ。逃げるが勝ちというヤツだ。物語で聞くような姿と違って、良夜の住処は立派なものだ。捨てられた町を再利用していると言っていたか……。町を捨てるなど、ろくな種族ではないだろう。
 そこまで思考を遊ばせて、クロスは先の"殺し合い"を回想する。腹が開いていると指摘されながら、鳩尾を蹴られた瞬間、その前後。全体を通して、どのように剣を握っていたか。最後に倒されて、ナイフが迫るまで、何が起こったか。何が起こったか……。……どうすれば。

 足元は土から石に変わる。河原に出たのだ。川のせせらぐ気配に、木々の揺れる微かな音。それらに囲まれていたことに、クロスは始めて気づき、
 身体能力の可能な限り素早く振り返り、剣を……抜こうとしたときに、弱々しく、小石が脇腹に当たり落ちる音がした。目で姿を捉える前に、小石は他の石に紛れて分からなくなる。視線を上げると、少々離れた場所にナイフを持つプラチナ──ラテがいた。
「それは、ナイフの代わり。ナイフは、抜くのが面倒だから」
 かがんでまた小石を拾う。そしてクロスに、再びやんわりと投げた。今度は届かなかった。
「18回ね。殺されたの」
「先の小石は、数に入らない。……殺意が無かった。あれでは、ナイフでも死なない」
 毅然とクロスが答える。その返事にラテは弱く笑って
「じゃぁ、なんであんなに一生懸命反撃しようとしたの?」
 と問いかけた。よく、女がする笑い方だとクロスは思った。男の困った性質を、愛してしまっている自分への自嘲。もちろん、クロスは自分が愛されていないことをよく理解している。だから……、同じように、男が女を愛するときの微笑みを返した。
「殺すのが役割だから、殺してやろうと。石には気づかなかった。お前が、」
 そこまで言って、クロスは逡巡した。言葉を脳裏に並べて、選んで、
「いるのが、分かっただけ」
 優しい言葉に、置き換えた。はっきり言ってやってもよかった。お前が、ぼぉっとしているのが分かったからで、──それは、ケジメをつける決心が、できていないからだと。しかし、唐突に彼女から家族を奪った加害者として、そして、年上の男として、優しくあるべきだった。男としての優しさが、つまり、上辺を柔らかい布で覆うような杜撰なものであっても、それが人を傷付けないというシーンがあり、それが今だった。そう、傷付けないという消極的な姿勢が、負い目を持つ者の取り得る最善。

 無視してやればよかったのだ、彼女の気配を。しかし、体が勝手に反応してしまった。敵は、いつも倒すのが最善とは限らないのに。クロスは、表情を変えないように注意を払いながら、それでも、知らずに歯を食いしばっていた。視界の端に女の指を捉えたときよりも、強く。
「そう……」
 ラテは、遠くを見るような瞳をしていた。どこまでも透き通るような空色の瞳。兄とは酷く違う。
 そんな目で、空を見ていた。
「ならば、きちんと殺すべきだった」
 風が吹いた。秋が始まる、冴え渡るような風だ。
 その中に髪を遊ばせる彼女は、とても静かな表情をしていた。自分を殺すべきだったと告げたそのときも、そうだった。彼女が本心からそう言っているのが分かった。彼女は決して死にたがっている訳ではない。生きるために戦ってきた。なのにも拘わらず、彼女は、ごく当たり前のこととしてそれをクロスに教えているのが、彼には分かった。

 その理解の瞬間、心が急激に凍てついて、酷い音を立てながらひび割れたような気がした。

  「強くないと、兄が死んでしまう。だから、強くなってもらう」
 と、彼女は昨夜言った。つまり、クロスが足を引っ張って、周囲に危険をもたらすということだ。
 しかし、彼女が言いたいことは、そうではなかったのだ。
 いくら腕力が強くても、それで人を殺すことはできない。
 そうだ。
 彼女にとって、殺人はあまりに近い。
 そして、殺されることも、同等に近い。
 糧を得るために殺すように自然に、
 生きるために殺し、
 また、
 誰かが生きるために、
 自らも命を絶たれるだろう。
 何かが閃くのが分かった。
 クロスは右足を踏み出す。
 空気の分子の隙間を縫うように、すみやかに飛んでくるそれを、自然に体を捻りながら、避けることができた。
 恐れの中で。
 それでも自然に、静かに。

 ……静かに、彼女は笑んだ。
「今のはいい」
 言って、集落へ歩み出す。
 背中をクロスは追う。銀髪が揺れている。同族を示す、兄と同じ銀色だった。
 風が吹いて、子ども達の歌う声が聞こえてきた。この組には、子どもがたくさんいる。そのほとんどが、戦争孤児か、商人や富豪から奪ったものらしい。

 かなしみの色は紅い薔薇色

 ラテが、それを聞いて立ち止まった。そして振り返り
「私の2人の兄は、あなたが、国外[コチラ]側の人間になることを、……認めたのね?」
 真っ直ぐとクロスの瞳を見て、問いかけた。もはや自問のような、頼り無さだった。クロスは悟られないように極めて慎重に覚悟を決めて、されたように真っ直ぐと見つめ返す。
「最初は、反対された。シーナは、説得に3ヵ月かけた」
 ラテが息を吐いた。今なら、殺意が無くても、彼女が、殺すために、殺されることを認めなくても、蒲公英の綿毛を散らすように簡単に彼女を死なせてしまえそうなくらい、彼女が朧気に見えた。
「それなら……、いいの。覚悟があるなら。──覚悟の必要な関係だと、分かっていれば」
 風が吹いて、木々の揺れる音、髪の散らばり遊ぶ音、そして歌声。
 彼女があまりにも無造作に右手を上げて、髪を宥めて、手を振って、クロスの左頬に鋭い刺激が走った。
「18回目」
 その声を捉えた耳が震えたとき、プラチナは目前から消えていた。   

 かなしみの色は紅い薔薇色
 滲んで溶けて流れていく夢
 吸い込む大地に凍える歌が
 今日も幾度も振り落ちる

 手をやれば、指先が赤く汚れる。
 初めてだった。彼女が、クロスに本物の凶器を使うのは。
 子ども達の声に紛れて女性の優しい声音が響くのを、噛み締めていた。


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10.05.24