誘う白

 街は白に沈む。空からちらちらと降る粉雪が、多くの白に吸い込まれて1つになる。
 厳寒の王国ララ。
 シーナは湯気に似た息を吐き、左右を見渡した。揺れる銀髪には、数多の美しい結晶が散りばめられている。彼は暖かい飲み物の気配を見付け、そこへと足を向けた。
「ミルクティー」
 小さな窓に向かって、必要最低限の単語を口にした。小さな立て看板は雪で隠されつつあるが、暖かそうなカップの絵はとても魅力的だった。
「ホットですか?」
「……もちろん」
 この国の住民は、雪で1階が半分埋まっていても、外で冷たいドリンクを飲むのだろうか……。想像してしまい、一気に鳥肌が立つのを感じる。
 めげずに結梨から借りた財布で支払いを済ませ、マグカップを受け取る。飲食のスペースは持たないが、こうして飲み物や軽食を売る店は多い。飲み口の小さな穴が開いた蓋が付いているのは、やはり寒さ対策のため。店名がデザインされたカップを両手で持って、匂いを嗅いで、飲み口に軽く唇を付けて
「熱ッ」
 ちっちゃく叫ぶ。

 目的地を探して、街を歩く。カップは保温性に優れていて、彼に温もりを与え続けた。その小さな献身を両手で包み、頼りながら、雪を危うげに踏みしめる。──と、前方に人影が見えた。些細なもの、普段は背景として認識しているものが、急に景色の主人公になるのはよくある話だが、これは少し違った。
 唾を飲み込む。
 どうしたらいいのかはシーナには分からなかったが、とりあえず歩いた。
 黒のマフラーに、白い物が付着している。

 声をかけられた。
「久しぶり」
 反射的にシーナは「ああ」と、同意にも生返事にもとれる声を出す。それは、捻くれた考えかも知れないけれど、苦渋の決断を下したような……呻き声にも思えた。
「道に迷った。すまない」
 待ち合わせの時間に遅れたという事実をシーナは知っていたから、詮索される前に先手を打つ。謝った相手に色々と言えないものだし、事実だからやましくもない。相手にもその作戦と真実性は伝わったようで、気にするな等と一言二言ばかり言って
「中に入ろう」
 と彼を促す。シーナは、自分が寒さを今思い出したような気がして、その予感にビクンッと心臓が怯える。手の平がじんわりと暖かさを取り戻していた。
「待って、カップの中全部飲むから」
 怯える心臓に急かされて咄嗟に出した声の割に落ち着いていたのは満足だけれど、少し言葉遣いが子どもっぽくなったと、少し悔しくて甘い紅茶を一気に飲み干した。

“静かな”という意味の店は、名の通り静寂を美しく満たしている。それを彩る音楽と、時折生まれて弾ける、何かと何かがぶつかる音。
 その店の1番奥にあるボックス席に腰を降ろす。変な店だった。床から天井までの下半分は壁で、それより上は雪しか見えない。半分地下で、半分地上という不思議な世界。飴色の照明に照らされて、雪が少し寂しい。そのちょっとした孤独に押し潰されそうな感覚が、心地いい圧迫感となって感じられる。

 空気に感化されたように、待ち合わせ相手は言葉少なだった。黒の短い髪の毛に付いた雪が、透明に近付いて見えなくなる。多弁な男ではないが、メニューを見ながら無言というのは珍しい。寡黙をこの店がルールにしているのか、それとも、話す事が無いのか、話したくないのか……。シーナは向かいに座っている男を見る。指先が、米神を触れている。手の甲の筋張った感じ、耳が少し尖っているその具合、千歳程の間離れていた気がするけれど、それらは変わっていない。しかし、
「痩せた」
 口を突いて、言葉が漏れ出す。
「ああ」
 挨拶の返事にシーナした発音に似ていたけれど、ずっとクールで、大人の返事だ。

 ウエイトレスがやって来て、男はメニューを指差すだけの労働で注文を付ける。シーナの分も勝手に頼んでいるのが、仕草ではなく経験から分かった。
「物ぐさだな」
 シーナがそう指摘する。照明のための小さな蝋燭が、酸素を食ってちらりちらりと揺れるのを見ながら。
「あのウエイトレスは、耳が聞こえない。聞こえないのが好きらしい」
 ララの医学と科学ならば、聾を改善するのは容易いだろう。彼女も音を聞いた事がある筈だとシーナは推測したし、それは当たっていた。音が聞こえない人がいるという状況があまりに浸透していないこの国では、不便が多すぎる。
「変わった嗜好だ……」
 小声で呟いた。ウエイトレスの靴底が床と接触する音がとても澄んでいて、それが不可思議な謎のように漂っている。

 本当に、静か。ふわりふわりと、暖かい空気が停滞する。
 シーナは角砂糖をシュガーポットから取り出して、飴色の照明に侵されたそれを眺めてみる。紅茶に入れたら、今度はほろほろと紅茶色に浸食され、透明になる。砂糖は忙しくて、移り気だ。
 彼は静寂を楽しめるだけは大人だったけれど、それでもこの時の沈黙は、嫌な匂いがした。それを知ってか男がポツリと話し出す。
「元々白かったけど、今日は病人みたいに白かった。それでも、安心した」
 と男は言う。それでも、に含まれたニュアンスを掴み損ねて、シーナは怪訝に眉をひそめる。
「暖まったら、少しマシになったな」
 男は意に介せず、そう付け足した。手を伸ばして、薄い赤が滲んでいる頬を軽く撫でる。そのまま静かな動作で、運ばれてきた珈琲を飲んだ。相変わらずブラック党らしい。この液体特有の匂いが、白い湯気になってゆらりとくゆる。

 触れられた事に対して牽制を入れるタイミングを完全に逃し、シーナはその香りの行方を追うみたいに目線を逸らした。声を掴んだ耳が直接息を吹きかけられたようにくすぐったく、そして先程触れられた頬が、炎に焦がされたように、痛い。
「今まで、どうしてた?」
 ほろりと口を突いて出てきた言葉は、無風の中を降りてくる粉雪のようにゆっくりと心に落ちてきた。自分が何を言ったのかをシーナ自身が知った時、男は少し苦笑していた。しかし、シーナがそれを見て取る前に無表情になる。
「情報管理における向上、強化を目的とした国外視察」
 蝋でできている指を動かすようにぎこちなく、シーナは両手の指を組んだ。男の視線は、自分の発言がどのような影響を与えたかを探る。そうしている事を隠しもせず、熱を帯びるまでに丹精に。
 白く、滑らかで脆そうな指は、純白の蝋燭。焦がれれば溶ける。
「と、いう名の国外追放」
 それを防ぐように、男が言葉を追加する。それには確かに効果的で……空気が冷めた。夢から醒めたような感覚でもあったし、胸から下が、綺麗に抜き取られたような気がした。音楽も聞こえない。蝋燭の火の揺れる気配がすぐ傍でする。ウエイトレスの足音が1つ、甲高く響く。

 くすんだ蒼色の瞳が隠されて、次に目を開いた時、男は苦笑に似た表情をしていた。
 気にするな、俺の責任でもある。そう男は呟いて、珈琲を1口飲んだ。
 蝋人形はもはや常温でも溶けてしまいそうな程、自分の内側から生まれる熱に戸惑う。別れた男1人の結末を知っていて、それが今、本人の口から確認されて、それがどうしたというのだろう。今まで知っていて、それが今目の前にあったとしても、何を動揺する理由があろうか。

 純白の蝋燭を削って生まれる火で温められ続けるポットから、ぬるい紅茶をカップに注ぐ。蜂蜜を落とす。沈む。

 知っていて、そして今確認されてようやっと実感したというのなら、これ程薄情な事があるだろうか。男の視線は昔から変わらず真剣で、恐らくこの男の目にはシーナの隠したい物全て見えているのだろう。青白いカップに口付けた。そして声に出る直前のような、耳に聞こえる類ではない、頭に響く声で男の名を呼ぶ。無意識の行動ではあったが、だからこそその声に驚いたシーナは、誤魔化すために目を伏せた。
「会いたかったよ」
 それに呼応して、男がそう言う。ちらりと上目遣いにシーナはその表情を確認して、また逸らす。肌全てで呼吸するように肩を揺らして、体全てで息を吐くように物憂げなため息をした。それを男が見つめる。そう、この男は昔から、いつも何かを熱心に見ていた。

「もう、あの頃みたいにはなれないと思う」
 視線に耐えられなくなって、シーナはそう告げた。男の目を見て、真っ直ぐに見てそしてまた逸らす。……自らを責める熱のような、世間から罪悪感と呼ばれるものがそうさせたのかも知れない。熱い物に触れた時咄嗟に手を引く、そのような働きに形が少し、似ていた。
 聾のウエイトレスが、男にもう1杯の珈琲を注いでいる。ウエイトレスの耳には白玉の飾りが付いていて、少し揺れた。蝋燭のように艶消し加工をしたような、しかし透明感のある白色。
「あの頃より、いい関係になると思う」
 戯けた仕草で肩をほんの少し竦めて、男は言った。そのほんの少しが、静かな世界にはとても刺激的だった。ウエイトレスが礼をして去っていく。足音の硬質感が白玉を揺らす。その揺れが心拍音のように体の内側から感じられる。シーナはその感覚に悪酔いして、頭を振った。図らずも否定の方向に。
「どうして」
 男は呟く。シーナの髪が、白い光をちらちらと発している。それを見つめるあまりに催眠をかけられてしまったかの如く虚ろげな声。雪に、床に、シーナの肌に吸い込まれて消えていく運命。
 男の、赦すよ、そんな胸裏が蔑ろにされてしまったのを、してしまったのをシーナは感じて
「恋人がいるから」
 と、取って付けたような、でもとても大切な事を告げた。男の視線が熱い。火傷をしてしまったように、皮膚がチリチリと痛む。昔から、真剣に世界を見る人だった。
(だから、好きになったんだな)
 今更シーナは気づいて……不運な事に、それは小さな自嘲しか生まなかった。「恋人がいる」だなんて、言ってどうするというのだろうか。どうしてそれが重要な事だと思ったのか。まさか、またそういう関係になる未来を予見したとか。そしてそれに先手を打ったとでも?

(俺が、彼に惹かれると?)

 その結論に辿り着き、表情にまで自嘲が溢れた。それを即座に知ったシーナは、ため息1つでうやむやにする。
「縒りを戻そうとか、そういう意味ではないよ」
 男の小さな苦笑。安堵の姿をとっていたけれど、きっとシーナのあらゆる誤魔化しに気づいていた。
「そうか……。お前に恋人ねぇ……」
 珈琲をスプーンで1つかき回して、砂糖を少し入れた。白い塊が、黒に飲み込まれる。
「クロス……?」
 驚きが声になって、シーナの口からこぼれ落ちた。今日という日になって初めて名前を呼ばれた男は顔を上げる。答えを待つように、全く新しいものを見る少年のような表情をしている青年に、男は苦笑に限りなく近い笑顔を送った。


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07.09.03 08.08.14修正